人は、その環境での「当たり前」が自分の当たり前になる。
人間は環境の影響を強く受けるので、その環境(所属するコミュニティ)での当たり前の価値観が自分の価値観となり、また行動のためのルールになります。
最小の環境(所属するコミュニティ)はおそらく「家庭」でしょうか。その他「学校」や「会社」「サークル活動」「ボランティア仲間」「飲み仲間」「いつもの友人たち」「趣味の集まり」など、現代では誰もがいくつもの環境(コミュニティ)に所属しています。
「類は友を呼ぶ」と言われるように、似たような価値観や考え、同じ感覚を持つ人同士が自然と集うことになるので、大人になってからは、居心地良い環境そして自分らしく居られる世界がそこに形成され、仲間意識や絆も生まれます。
でも、似たような価値観や感覚を持っているからといって、全ての物事に対してみんなが同じ考えになるわけではありません。一人一人違う人間であり生き方も違うのですから、それは当然のことですね。
ところがそんなこと十分わかっているはずなのに、なぜかその環境(コミュニティ)の中で自分が少数派になったとき、それは大きく揺らいでしまうのです。
上の立場や声の大きな人の意見が主流派になるのか?それともたまたまみんなが同じ意見で、たまたま自分だけが違うのか?
私がおかしいの?私が変なのか?みんな同じ考えなの?誰も何とも思わないの?……やっぱり、私が間違っているのでは?
それが自分にとって大事なコミュニティであればあるほど、大切な仲間であればあるほど、自分の考えに信頼が持てなくなり、自分自身に疑いの目を向け時に責めたりしてしまう…
すると今度は、違和感を感じながらも周囲に合わせた行動をし、本音をしまい込んで何も言わない、あるいは話を合わせるといったことになり、そんな自分をますます嫌いになるという悪循環に。
仲間はずれになりたくない、みんなと繋がっていたい、せっかくの絆を失いたくない、理解してない人だと思われたくない……、だったら黙っていよう、適当に合わせておけばいいじゃん、と頭の声は言ってくる。
でも同時に、「違う!違う!」と心の奥底からの叫びがあるのも確かで、コロナ禍ではずっとこの狭間で、置き場のない不安定さや居心地の悪さを私は抱えてきたように思います。
でも、それはもう終わりにする、と決めました。
自分の感覚を信頼し、自分の考えを尊重する。自分が実際に見て体験して、自分で調べて自分の頭で考えて判断したことを採用する。
たとえ自分が少数派であっても、自分がその中では「異端」でも、それがどんなに大事にしたい仲間(コミュニティ)であったとしても、
「違う」と感じ判断したら、私には違うし、
「違う」と声をあげても、周りとの信頼や絆はたぶん壊れない
コロナ感染という体験は、私にとても大きな影響をもたらしてくれました。
もしも私と同じように、違和感を覚えながら周りに合わせて行動している人、上の人や主流派の声に押され自分の思考を止めてしまっている人がいたなら、
合わせる必要はない、自分の頭で考えてほしい、あなたの感覚、あなたの考えを尊重してほしい。
あなたの中心に、別の誰か(尊敬する人であっても)を置かないで。それこそが、本当の自分を生きることになるのだから。