巷で話題の「正論おじさん」
なぜこんなことやってるの?という「原因」について、前回の記事で書いてみました。
「原因」は「過去」の側にあるので、原因を探っていくとどんどん過去にさかのぼっていきます。
では「過去」ではなく、「未来」の方向を見てみると・・・
おじさんの行動、その「原因」ではなく「潜在的な目的」は何でしょう?
おじさん、いったい、何のためにこんなことやってるの?
それは、
「社会とつながるため」
です。
たとえケンカになっても、
警察のお世話になっても、
メディアに取り沙汰されても、
です。
端から見たら、
「え~?あんなトラブルになって、お互い嫌な思いをしてるのに!?」
「全然、つながってないじゃん」
って思うかもしれませんが。
小さな子どもが、
寂しくて、
自分の方を見てほしくて、
もっとかまってほしくて、
親に対して問題行動を起こしたりしますよね。
(この場合の『問題行動』とは、『親にとって都合の良くない行動』という意味です)
結局怒られて泣いて、自分も親も嫌な思いをして・・・という結果になったとしても、
その行動の潜在的な目的は、
「こっちを見て!もっとかまって!」を満たすためなので、
たとえこっぴどく怒られたとしても、目的は達せられるわけです。
子どもにとっては、
こっちを見てもらえない、
かまってもらえない、
放置されている、
ひとりぼっち・・・
より、遥かにメリットがあります。(潜在意識の中で)
おじさんも、それと同じで。
定年退職して、
誰からも必要としてもらえない、
こっちを見てもらえない、
かまってもらえない、
なんだかひとりぼっち・・・
よりは、
たとえトラブルになろうとも、社会と摩擦を起こしている方が遥かにメリットがあります。(潜在意識の中で)
人間が「死」の次に恐れるのは、「孤独」なのかも。
この構図、ゴミ屋敷問題の高齢者と同じです。
たとえ近隣住民とトラブルになろうとも、「孤独」でいるより遥かにメリットがあるんです。
現代の高齢者の方々は、戦前戦後の「モノ」のない時代を生きているので、
「モノ」に執着する人が多いのだと思います。
満たされない心の穴を埋めるための手段が、
ある人は「ゴミを集める」であり、
ある人は「何かに依存」であり、
正論おじさんは、「舗道にあるものをどかす行為」です。
さて、この正論おじさん、
ゴミ屋敷の高齢者のように「モノ(ゴミ)」に執着ではなく、
なぜ「舗道にあるものをどかす行為」なんでしょうか。
そこには、このおじさんにとって大切な「価値基準」「信念」があります。
報道によると、この行為を始めたきっかけは、
「点字ブロックの上に、モノが置かれていたから」
だそうです。
点字ブロックは、視覚障害者にとって命を守る大事なもの。
その上に無神経にモノを置く行為が、このおじさんには許せなかったんですね。
人は、自分が大切にしている「価値基準」「信念」を犯されたとき、怒りを覚えます。
つまりこのおじさん、
社会的弱者への愛にあふれている人です。
彼らと同じ目線になることができる人です。
彼らの気持ちに寄り添うことができる人です。
そして彼らを守るための行動力もあります。
元気に動くための体力もあります。
そんな素晴らしい人なのですから、
松坂市の商店街、または観光協会、またはそれに類する何かの団体の方から、
ぜひこのおじさんに、
何かお仕事を正式に依頼するのが良いと思います。
「舗道にあるものをどかす行為」の「潜在的な目的」が、「社会とつながる」ためなのですから、
「社会とつながる」という目的が達成できれば、
「手段」としての「行為」は何でも良いわけです。(潜在意識の中で)
小さな子どもが何か問題行動を起こしているとき、
ほとんどの場合、それは
「もっとこっちを見て!」
「もっとかまって!」
「寂しいよ・・・」
の、サインです。
こっちを見てもらう「手段」が、「問題行動」となって表れているんですね。
だから、親がもっとたくさん時間をとって子どもと一緒に遊んだりして、子どもの心が満たされれば、
「手段」としての問題行動は消えるか、別のもっと嬉しい行動へと変化します。
(ああぁ、過去の自分に反省・・・娘よ、ごめん)
この正論おじさんも同じで、
周囲から何かお仕事をお願いされて、それに応えて毎日を過ごすことができたなら、
「社会とつながる」という目的が今よりもっと良いかたちで達成できるので、
「舗道にある看板など、ものをどかす」という現在の行為は消えるでしょう。
正論おじさんが本来持っている「社会的弱者への愛」を、
適切なかたちで適切な手段で周囲にそして社会に還元し、周囲からもその恩恵を受け、より良き循環ができることを願います。